レンヌとナント、ブルターニュの二都物語

ペイ・ド・ラ・ロワール地方のナントにブルターニュの旗が見られる理由とは?

ブルターニュ大公城
ブルターニュ大公城

フランス北西部にあるロワール川の流域にある街ナント(Nantes)。ガイドブックでナント(Nantes)のページを開くと、必ず載っているものが街のシンボルとも言えるブルターニュ大公城(Château des ducs de Bretagne)です。しかし、そもそもブルターニュ地方でなくペイ・ド・ラ・ロワール地方にあるナントにブルターニュの名前のついた城があるのは何とも不思議です。

実際に城を離れて街を歩いてみると、店先などにブルターニュの旗が飾られていたり、ブルターニュ名物のクレープ屋が多くあり、魚介類の缶詰ラ・ベル・イロワーズ(la belle iloise)やチョコレート屋のラルニコルなど、ブルターニュ地方発祥でブルターニュ地方を中心に店舗を構える店の数々が並んでいることに気がつきます。やはり、ナントとブルターニュは何か深い関係がありそうです。

かつてはブルターニュに属していたナント

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中庭から見たブルターニュ大公城

歴史を遡れば、かつてナントはブルターニュの首都でした。ブルターニュの中でも重要な位置を占めていたナントに、フランス王国に併合される前の最後のブルターニュ公爵フランソワ二世(François II de Bretagne)が城を建設したのが15世紀の話です。この城が前述のブルターニュ大公城です。元々あった13世紀に建てられた城の跡地に、フランスからの攻撃に備えた軍事要塞としての機能を備えつつ、ブルターニュ公爵が滞在するための新しい城を建てたのです。

アンヌ・ド・ブルターニュ像
アンヌ・ド・ブルターニュ像

その後、彼の娘のアンヌ・ド・ブルターニュ(Anne de Bretagne)によって城の工事は進められます。屋根に取り付けられた窓やロッジア(窓が外に開かれた回廊)はその時のもので、中世の軍事要塞に優雅さや気品を与えました。これはイタリアからフランスに入ってきた初期のルネサンスの影響を感じられる部分で、ロワール渓谷のアンボワーズ城などでも見て取ることができます。

アンヌ・ド・ブルターニュはブルターニュの独立を守るために二人のフランス王、シャルル8世とルイ12世の妃となります。しかし、彼女が亡くなった後の1532年のブルターニュがフランスに併合されます。こうしてナントのブルターニュ大公城はフランス王がナントに滞在する際の住居として使われるようになりました。

ブルターニュの行政の都がナントからレンヌに移った理由

ブルターニュ高等法院
レンヌのブルターニュ高等法院

ブルターニュの併合など領土の拡大に伴って、歴代のフランス王は各地に高等法院(Parlement)を設置しました。高等法院は王の名の下、刑事と民事を扱う控訴院の役割を果たす司法権限を有するだけでなく、王令を登録して法律との整合性を審査する行政的な役割も担う機関でした。

ブルターニュでは16世紀の半ばにアンリ2世(Henri II)によって常設の高等法院がナントとレンヌ(Rennes)に設置され、当初は交互にその役割を果たしていましたが、ナントに落ち着きました。しかしながら、アンリ2世の死後、幼い王の摂政であった妻のカトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis)はレンヌの圧力に負け、高等法院をレンヌに移すように命じます。この決定が結果的にレンヌがブルターニュ地方の行政上の首都であり、今現在もブルターニュの首都である理由でもあります。レンヌではブルターニュ高等法院が今でも残されており、現在も司法の役割を果たしています。

ナントがブルターニュの経済の都になったその黒い歴史

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ナントを流れるロワール川

ブルターニュにおける行政・司法上の権力を失ってしまったナントは、経済的な首都として君臨を続けます。大西洋にほど近いロワール川(La Loire)流域あるという地理的要因も後押しし、18世紀にはフランスで最大の黒人奴隷貿易の港として栄えたのです。長い間隠されてきたこの黒い歴史によって、ナントは経済的な発展を遂げることとなります。

物々交換用の商材を乗せてナントの港から出発した船は、アフリカ大陸に着くと積み荷と捕虜を交換します。そして、アメリカ大陸に渡り、捕虜をプランテーションで働く奴隷として売り、砂糖やコーヒー、インディゴなどの植民地でしか取れない物資をヨーロッパにもたらしたました。18世紀当時ナントは実に42パーセントのフランスの売買を担っていたと言われています。こうして、ブルターニュでは行政の都レンヌ、経済の都ナントという2つの都が共存するという図式が20世紀まで続きました。

ブルターニュから切り離されたナント

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ブルターニュ大公城前の「水の鏡」

20世紀に入り、歴史的に見ても長い間ブルターニュ地方の一部であったナントに思いがけない出来事が起きます。それはフランスがドイツに占領されていた第二次世界大戦中の1941年のことでした。フィリップ・ペタン元帥が指揮の下、ヴィシーに本拠を構えていた当時の政権はナントを政治上、行政上の理由でロワール・アンフェリウール県(Loire-Inférieure)に区分したのです。これによりナントはブルターニュ地方から外されることとなりました。

歴史的な文脈を全く考慮しないこの決定は、大戦後もその流れが受け継がれ、ロワール・アンフェリウール県はロワール・アトランティック県(Loire-Atlantique)に改称されたものの、ナントはその県庁所在地となり、ブルターニュに戻ることはありませんでした。そして、アンジェ(Angers)やル・マン(Le Mans)などと共にペイ・ド・ラ・ロワール地方(Pays de la Loire)を構成しています。

現在もナントはブルターニュ地方に戻るべきだという議論は続いており、昨今の地方の再編成の際には必ず話題になります。しかし、実際にナントがブルターニュに戻った場合、レンヌとナントを2つの都として扱うのかという議論が起きます。その場合はレンヌが現在の権限や役割を手放すことになり、非常に複雑な問題が新たに生まれることとなります。

この先、ナントがブルターニュに戻るかどうかは分かりません。ただ、ナントにはブルターニュの都としての歴史があり、レンヌが都になったことによって2つの都市の運命が変わったことは事実です。このことを知っておくと2つの都がまた違って見えてくるのではないでしょうか?

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