ノルマンディー地方カンとイングランド王ウィリアム征服王の意外なつながりとは?

イングランド王ウィリアム1世とノルマンディー公ギヨーム2世は同一人物?

こんにちは。フランス政府公認ガイドの濵口謙司(@tourismjaponais)です。

ノルマンディー地方と聞いて思い浮かぶ歴史上の出来事の一つが「ノルマンディー上陸作戦」ではないでしょうか。カルヴァドス県の県都でもあるカン(Caen)は、第二次世界大戦の戦局を変えた連合軍によるドイツ占領下のフランスへの侵攻作戦の舞台となった街でもあります。

戦時中に爆撃を受けたカンは街の約75%が破壊され、その後再建されたもの。しかし、街を歩くと中世のノルマンディー、そしてイングランドの歴史を感じることができる建物が残されています。

目次

  1. ノルマン・コンクエストとウィリアム1世
  2. ギヨーム2世がイングランド征服を目指した理由とは?
  3. カンに残るウィリアム征服王ゆかりの建築群

1. ノルマン・コンクエストとウィリアム1世

カンの街の歴史を語る上で欠かせないのが、ウィリアム1世という人物です。

世界史を学校で習ったことがある方なら、「ノルマン・コンクエスト」という言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。

ノルマン・コンクエストとは1066年にノルマンディー公ギヨーム2世がヘイスティングスの戦いによりイングランドを征服したことを指します。これにより、彼はイングランド王ウィリアム1世として即位。イングランド王兼ノルマンディー公の誕生です。

カンはそんなウィリアム1世によってその礎が築かれた街で、彼が永眠する場所でもあります。

ウィリアム征服王の戴冠

ちなみに、英語のウィリアム(William)はフランス語ではギヨーム(Guillame)に対応しており、違う名前のように見えますが、実は英語かフランス語かの問題で同じ名前なのです。少しややこしいですが・・・。

スペイン語だとギジェルモあるいはギリェルモ(Guillermo)、ドイツ語だとヴィルヘルム(Wilhelm)と呼ばれます。知っておくと世界史が少し身近に感じられますね。

2. ギヨーム2世がイングランド征服を目指した理由とは?

feature-image

ところで、そもそもなぜノルマンディー公ギヨーム2世はイングランドに侵略したのでしょうか?

実はこれは当時のイングランド王の死後の相続問題に起因しているのです。1066年に当時のイングランド王エドワード懺悔王(Edward the Confessor)が子息を残すことなく息を引き取ります。

世襲制の決まりがしっかりと定義されていなかった当時、当然のごとく後継者問題が浮上する中、アングロ・サクソンの諸侯達によって選ばれたのはハロルド(Harold)でした。これに反発したのが、エドワードの従甥にあたるノルマンディー公ギヨーム2世だったのです。

ギヨーム2世は生前にエドワードが後継として自分に王座を約束していたと主張。そして、騙されたと感じていた彼は、力ずくで王座を手にしようと、兵と物資を集めて1066年の夏にイングランドに上陸します。

そして、イングランドの南岸にあるヘイスティングス(Hastings)でハロルド率いる軍を破り、その年のクリスマスにイングランド王ウィリアム1世として戴冠したのです。後に彼はウィリアム征服王(英語ではWilliam the Conqueror、フランス語ではGuillaume le Conquérant)と呼ばれるようになりました。

3. カンに残るウィリアム征服王ゆかりの建築群

では、そんなウィリアム征服王とカンはどういうつながりがあるのでしょうか?

カンの位置するノルマンディー地方の西側は当時ノルマンディー公が治めるのに苦心をしていた場所であり、イングランドを侵略する前の若きギヨーム2世は統治を容易にするために拠点をどこかに作る必要があると考えていました。

そこで目をつけたのがカンでした。オルヌ川(l’Orne)が流れており、海への移動が便利であることも後押ししたのです。

カン城
カン城

現在も彼に所縁のある建物がカンには残されています。街の中央にあるカン城(château de Caen)、そしてカン城を取り囲む旧市街の両端にある2つの修道院、男子修道院(abbaye aux hommes)と女子修道院(abbaye aux dames)がそれに当たります。

カン城はノルマン・コンクエストの前の1060年頃にギヨーム2世によって建てられました。その後、歴代のノルマンディー公やイングランド王のお気に入りの住居となり、存在感を常に発揮することとなりました。長い年月の間に、時代の情勢に応じて姿を変えてきましたが、今も変わらず街を見守っています。

カンの男子修道院
カンの男子修道院

一方で、2つの修道院のうち男子修道院はカン城より少し後の1063年に創始されました(建物の建築開始年は1066年)。修道院付属教会(上の写真の左側の建物)はロマネスク美術の様式でもあるノルマン様式の傑作ともして知られ、2つの塔が立ち並ぶファサード(正面部分)や3層からなる建物の構造はイングランドの修道院建築に多大なる影響を与えました。

現在はカン市庁舎として使われているこの男子修道院にはイングランド王となったウィリアム征服王の永眠の場となっています。ちなみに、同時期に彼の妻であるマティルダによって建てられた女子修道院(abbaye aux dames)は彼女自身が埋葬されています。つまり、夫妻は街の両端にある2つの修道院に別々に眠っているのです。

DSCF8178.JPG
男子修道院付属の教会内にあるウィリアム征服王の墓石

このように、イギリス海峡に近いカンはイングランドに地理的だけでなく歴史的にも密接な関係があるのです。カンを訪れる際はウィリアム征服王やイギリスの歴史を予習しておくと、違った角度で街の魅力を感じられるはずです。