パリの街並みにどこか似ているリヨンの一角とは?
リヨン(Lyon)の街を歩くとどこかパリと街の構造が似ているなと印象を受けませんか?街の中心を川が流れ、かつてのローマ帝国の都市で今も遺跡があり、19世紀後半に建てられた当時の教会建築の傑作とも言える教会が立つ丘があり、高層ビルが並ぶビジネス街がある・・・このように共通点が多くあります。
もちろん、リヨンの歴史的地区の中に入るとパリにはないイタリアの影響を受けたカラフルな色使いのルネサンス期の建築の数々が目につきます。しかし、19世紀の都市開発によって生まれ変わった一部の地区はまさにパリを思わせます。それには理由があるのです。
都市開発の必要に迫られた当時のフランス
日本にペリーの黒船が来航するちょうど1年前のフランス。クーデターにより1852年に大統領から皇帝となったルイ=ナポレオンことナポレオン3世はフランスの各都市の近代化を推し進めます。当時産業革命によって大都市への人口の流入とともに居住状態は悪化し、都市開発が必要だったからです。鉄道の開通、大きな道路の整備などのインフラ整備とともに命題となったのが、住居となる建物を増やすことでした。そのシンボルでもあるのがパリに広がるオスマニアン建築(architecture haussmannienne)と言われるものです。
オスマニアン建築とは?
ナポレオン3世は当時のセーヌ県知事ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン(Georges-Eugène Haussmann)にパリの都市改造計画の遂行を命じました。その彼の名前をもじったオスマニアン建築は同時期に作られたオペラ座と並んで19世紀のパリを象徴するものだと言えます。
この建築の特徴は垂直と並行、均質と調和を意識して整然と並んでいる点です。横並びの建物の高さは全て揃えられ、全て1階部分はしばしば商業スペースに割り当てられました。また、3階は「高貴な階(étage noble)」と呼ばれ、しばしばバルコニーなどが取り付けられ、他の階とは一線を画した豪華な雰囲気を出しています。その名の通り当時の高貴な人たちであった当時のブルジョワ、つまり財を成した中産階級などの住まいだったのがその理由です。今の発想では上に行くほど値段が高くなるというイメージですが、当時はエレベーターがまだなく階段で登る必要があったので上の階は敬遠されたのです。