リヨンの「オスマン」と呼ばれたローヌ県知事
オスマンがセーヌ県知事に就任したのと時を同じくして、リヨンのあるローヌ県知事の役職に就任したのがクロード=マリウス・ヴァイス(Claude-Marius Vaïsse)でした。リヨンは、パリとともにフランスの他の都市に先駆けて行われた都市の現代化のモデルとなった場所でもありました。
ヴァイスはオスマンの例にならって都市改造を行ったことから後に「リヨンのオスマン」と呼ばれるようになります。エドゥアール・エリオ通り(Rue Édouard Herriot)やレピュブリック通り(Rue de la République)などはその代表例です。道路を作るために多くの古い建物を壊し、オスマニアン建築の建物に建て替えました。

リヨンの街の外観を大きく変えたヴァイスは1864年に亡くなり、4年後には写真のジャコバン広場(Place des Jacobins)には「リヨンのオスマン」の功績を讃えた噴水を建設されました。そんな中、1870年に彼を支えていたナポレオン3世は失脚してしまいます。その当時まだ取り付けられていなかったヴァイスの像は文字通りお蔵入りとなりました。実はヴァイスは民衆に快く思われていなかったことがその原因でした。ちなみに彼の像は溶かされて別の像を鋳造するのに使われたと言われています。
リヨンの19世紀後半に再開発された地区を歩くと、オスマンが手がけたパリを思い起こすのは決して偶然ではありません。当時の市民から嫌われながらも描き直した街の地図は、今ではフランス第2の都市の心臓部とも言える市役所をはじめとした要所を繋ぐ大動脈となり、街の発展を支えています。