画家としてのモネの転換期となったベル・イル滞在
こんにちは。フランス政府公認ガイドの濵口謙司(@tourismjaponais)です。
ブルターニュ地方で一番大きい島、ベル・イル(Belle-île)。フランス語で直訳すると「美しい島」と呼ばれるこの島は、その風光明媚な景色で訪れる人たちを虜にしています。それは今も昔も変わらず。19世紀には多くの画家に描かれ、中でもとりわけ有名なのがクロード・モネでした。最初は15日の予定だった滞在を、結果的に5倍の75日まで延ばしたことが彼がベル・イルに魅了された何よりのその証と言えます。

親交のあったルノワールに影響を受けてか、初めてのブルターニュ旅行をすることを決めたモネ。自らの家のあるノルマンディー地方のジヴェルニーを離れ、対岸の町キブロン(Quiberon)から船に乗って15km沖に浮かぶベル・イルにやって来ました。1886年9月12日のことで、彼は当時45歳でした。
英仏海峡とは違うブルターニュの荒々しい海
地元の漁師の案内のもと、大西洋を臨むベル・イルの美しい海岸を目の当たりにしたモネ。英仏海峡とは趣の異なる海の景色にすっかり魅せられました。彼がよく描いたコトン港の針岩に代表されるように、切り立った花崗岩の岸壁とそれに砕けて散る波はブルターニュを象徴する光景です。ちなみに、「コトン」とはフランス語で「綿」の意味。波が砕けてできた白い泡が綿に似ていることからつけられた名前です。

エトルタなど石灰岩の白亜の断崖が続くノルマンディーの海とは打って変わり、荒々しさが感じられるベル・イルの海。吹き付ける風に耐えながら、崖の上にキャンバスを広げ、慣れ親しんだ英仏海峡とは違う空や海、そして光に戸惑いつつも、自らのパレットを色彩を徐々にブルターニュ色に染めていきます。
ここで描かれた絵は北斎の浮世絵に影響を受けているとも言われています。現在、彼のジヴェルニーの家を訪れると、壁中を覆い尽くすように数多くの浮世絵の数々が飾られていることからもそれが分かります。
ベル・イルでの10週間の間にモネが生み出した作品の数は39に上り、現在では世界各地の美術館に展示されています。実は、ここでの滞在は彼の画家としての転機の一つと言われています。つまり、ここで生まれた作品群は有名なジヴェルニーの睡蓮、ルーアン大聖堂、エトルタの断崖などに先駆け、一つの被写体を描き続けた連作シリーズの始まりと考えられているため。日によっては四季が同じ日に訪れるような移ろいやすい天気、そして、それに伴い絶え間なく変化する光とベル・イルの海がそうさせたのかもしれません。
ちなみに、ベル・イルでの作品は美術商ジョルジュ・プティ(Georges Petit)の画廊でオーギュスト・ロダン(Auguste Rodin)との共催で行った1989年の展覧会でも展示されています。「考える人」など数々の有名な彫刻を生み出した彫刻家とモネは親交が深かったことから、ベル・イルで描いた作品の一つをロダンの作品と交換しています。
モネのベル・イル滞在の意外な苦労?
ベル・イルで描かれた美しい絵の数々からは想像できませんが、実は初めてのブルターニュ旅行、そして見知らぬ土地で思わぬ苦労していたモネ。島の南西部にあるケルヴィラウーアン(Kervilahouen)を訪れると、今でもモネが滞在していた小さな家が残されています。この家はカフェを経営していたマレック家が貸していたもので、ここで一人で滞在をしていました。友人などに宛てたモネの手紙を読むと、その当時の生活ぶりを知ることができます。

それによると、例えば、近くで飼われている豚の鳴き声や家の中を這うネズミのせいで寝付けないこともあったとか。それでも、多くの人や船が往来する島の玄関口である港町ル・パレのホテルよりもここを好んだそうです。少し歩けば、仕事場でもあり自らが惚れ込んだ海岸があったことが、何よりの理由だったのかもしれません。彼は朝焼けの光を求めて、朝早くから出かけていったそうです。
そんなただ一人のお客をもてなそうと料理を作っていたのが、マレック夫人。卵や魚、名物でもあるオマール海老などの食事をモネに提供していたようです。しかし、どんなに新鮮な魚介類を使ったおいしい料理でも、毎日続くとさすがに飽きてくるもの。
しかしながら、せっかく作ってくれる料理に文句を言うこともできず、「魚とオマール海老だけでは生きていけない」と手紙で愚痴をこぼしていたモネ。幸いにも、週に一回だけ肉屋とパン屋が集落に来ていたそうです。少し微笑ましいエピソードですが、もしかしたら、週一回のその楽しみのおかげでベル・イルで多くの絵が描かれたのかもしれませんね。
