フランス北部ベテューヌのグラン・プラスに見とれる

第一次世界大戦後に再建された美しい広場

フランス北部のオー・ド・フランス地方やベルギーの都市に行くと、街の中央にある広場にグラン・プラス(Grand’Place)という名前で呼ばれていることが多々あります。一番有名なのは、ユネスコ世界遺産にも指定されているベルギーのブリュッセルのものでしょうか。

フランスにも美しい建築で彩られた同じ名前の広場が多くあります。今回ご紹介するのは、パリ北駅からTGVで約1時間半のところにあるベテューヌ(Béthune)という街のグラン・プラスです。

激動の歴史の果てに

第一次世界大戦前のべテューヌのグラン・プラス。中央にある塔が鐘楼。

ベテューヌは中世より数多くの領主や国によって渇望された街でした。フランドル公国、神聖ローマ帝国、ネーデルラント(オランダ)などの度重なる攻撃を受けながら、時には占領され、時には敵の攻撃を守り抜き、フランス領になったのは17世紀のこと。自らの王領になった後も、当時のフランス王ルイ14世が街の城壁を補強させたことからも、ベテューヌの戦略面においての重要さがうかがえます。

グラン・プラスの中央には、中世のべテューヌの繁栄ぶりを今に伝える鐘楼(フランス語でbeffroi)があります。この建物は14世紀に建てられたもので、ユネスコ世界遺産に指定されているフランス北部やベルギーに広がる鐘楼群の一つ。当時、べテューヌは毛織物や穀物の取引で栄えていたことから、市民の代表者が行政官となって自治を行なっていました。つまり、高くそびえる鐘楼の鐘は街の富や繁栄ぶりを示すもの。彼らは、教会の鳴らす鐘ではなく、自分たちの鳴らす鐘によって時間を知り暮らしていたのです。

そんな街の姿を大きく変えたのが第一次世界大戦(1914-1918)でした。ドイツと国境を接するフランス北部とベルギーは常に戦線となりました。激戦地の一つだったアラスの近くに位置するべテューヌは、ドイツ軍にとって戦略的に喉から手が出るほど欲しかった場所でした。1918年の5月には侵攻してきたドイツ軍の爆撃にさらされることに。7万の砲弾が街に撃ち込まれ、街の約90パーセントが廃墟と化したのです。

広告