ストラスブールのラ・プティット・フランス地区の美しさの秘密

絵画のように美しい「ラ・プティット・フランス」地区の起源と歴史

こんにちは。フランス政府公認ガイドの濵口謙司(@tourismjaponais)です。

フランスの東の端、ドイツに国境を接する街ストラスブール。EUの欧州議会などが置かれる街でもあり、フランスでありながら第二次世界大戦後のヨーロッパの姿を凝縮したような国際的な香りが漂う場所でもあります。

一方で、そういった現代的な姿と対照的なコントラストを見せるのは街の旧市街。クリスマスマーケットで有名な街ですが、どの時期に来ても、思わずカメラを向けたくなるような景色が旧市街には広がっています。ストラスブール大聖堂や古い木骨づくりの家並みの数々はまさに絵画のような美しさ。

そんなストラスブールの古い街並みの中でも、ぜひ足を運びたいのが「ラ・プティット・フランス」と呼ばれる地区です。フランス語で「小さなフランス」という意味のこの界隈は街でも指折りの美しさを誇ります。ところで、フランスにあるのにわざわざそんな名前があるのは不思議に思いませんか?日本の各地にある「小京都」のようなものなのでしょうか?

実は、この名前には、今の姿からは想像できないような街の知られざる歴史が隠されているのです。

目次

  1. 「ラ・プティット・フランス」の名前の由来
  2. 元々は産業地区だったラ・プティット・フランス
  3. かわいい建物の外見は実は機能的

1.「ラ・プティット・フランス」の名前の由来

「ラ・プティット・フランス」の呼び名が広がったのは16世紀頃と言われています。ここで忘れてはならないのは、ストラスブールがフランスに併合されたのは17世紀末ということ。つまり、当時はまだここはフランスではなかったということです。それを踏まえた上で、名前の由来とされる2つの理由を見ていきましょう。

サン・マルタン橋(Pont Saint-Martin)から見たラ・プティット・フランス

宗教改革の影響?

16世紀のヨーロッパにおいて、キリスト教の社会を震撼させた出来事といえば1517年にルターによって始められた宗教改革。フランスでも、国が二分され、カトリック派とプロテストタント派は血で血を洗う争いを約半世紀にわたって続けました。そんな中、国内のプロテスタントの弾圧が強まると、フランスの神学者であり、プロテスタント改革の指導者でもあったジャン・カルヴァンは祖国を離れ、スイスに亡命しました。彼はその後も住居を転々とし、ストラスブールにも3年間滞在しました。

彼を追うように、プロテスタントのフランス人たちもプロテスタントの街ストラスブールに逃れてきました。やがて、亡命フランス人たちの住む小さなコミュニティー、つまり「小さなフランス」が形成されていった・・・というわけです。ただ、現在ではこの説よりも次の説の方が有力なようです。

イタリアからストラスブールにもたらされた?

15世紀末のイタリアで勃発したイタリア戦争。きっかけはフランス国王のシャルル8世がナポリ王国の王位継承権を主張したことでした。この戦争は16世紀に入っても続き、病気を患ったフランスの傭兵部隊の兵士たちは、ストラスブールの一角にある施療施設に収容されました。このイタリアから持ち帰った病気は感染するため、その一帯は隔離されていたそうです。

実は、この病気というのが梅毒。そのため、皮肉を込めて「フランス人の病気」と呼んでいたとか。そのことから、この施療施設があった地区自体が「小さなフランス」、つまり「ラ・プティット・フランス」と呼ばれるようになったということです。由来としてはあまり誇らしいものではないですね・・・。

2. 元々は産業地区だったラ・プティット・フランス

1988年にはユネスコ世界遺産には「ストラスブールのグラン・ディル(2017年にはノイシュタットも指定された)」として指定されたストラスブールの旧市街には、ドイツとフランスの国境に沿って流れるライン川の支流のイル川が流れています。川の流れを利用して作られた運河は、ラ・プティット・フランス地区にもつながり、ヴェネツィアのような水運都市の趣を見せています。

ストラスブール大聖堂

今ではこの美しい景観を見るために来た世界各国の観光客であふれていますが、かつてこの地区はストラスブールの発展を支えた産業地区でした。

旧市街には木骨づくりのカラフルな建物が多く並んでいますが、例えばストラスブール大聖堂の周辺などの建物をラ・プティット・フランスのそれと比べると、後者には彫刻などの装飾がほとんどないことに気づきます。

これらの質素な外観が裏付けるように、「小さなフランス」では貴族ではなく、多くの職人が働いていたというわけです。

この一帯を流れる運河は物資の運搬に適していただけでなく、釣りをしたり、粉を轢くために必要な風車を設置するに便利でした。また、皮のなめし工が多く働いた場所でもありました。

工房のすぐ近くで、動物の皮を洗うために水がふんだんに使えるということは、仕事面での効率を考えると理想的な立地であったことは想像に難くありません。

3. かわいい建物の外見は実は機能的

この辺りのいくつかの建物をよく見ると、建物上部の階の窓部分が、外に開かれたベランダのようになっています。これは、洗った皮を干すために使われていました。今見ると建物の魅力の一つですが、実は実用的な観点から生み出されたというのは興味深いところです。

1572年に建てられた建物「Maison des Tanneurs」。フランス語で「なめし工の家」という意味で、屋根の下の階は革を干すために使われていた。

現在見られるラ・プティット・フランスの建物の多くは16世紀から17世紀にかけて建てられたもの。ストラスブールの古い建物に共通していることでもあるのですが、この地区でも古い建物は一階部分がレンガや漆喰、二階以上は木骨づくりとなっています。

これは、ストラスブールが湿地帯にあったという理由によるもの。資材の特性を考えて、家が長持ちするように工夫された構造であると言えます。

このように、昔の人たちの暮らしぶりを想像しながらラ・プティット・フランスを歩くと、おとぎ話に出てくるような建物や景色も、実は地理的な要因であったり、街の発展を支えた実利的な理由だったということが実感できます。

そんなストラスブールの街の歴史を感じながら、「小さなフランス」を散策してみてはいかがでしょうか?