ノルマンディー地方カンの女子修道院を築いたイングランド王妃の悲哀?

ウィリアムとマティルダの結婚とその後

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カン女子修道院のサント・トリニテ教会内部

こうしてウィリアムとマティルダに結婚をすることになりますが、彼らが血縁関係にあるという理由で、当時のローマ教皇レオ9世によって婚姻の無効を宣告されます。彼らはノルマンディー公ロロを共通の先祖に持つからです。また、別の説によれば、教皇は神聖ローマ帝国と通じており、彼らはノルマンディー公の力が大きくなっていくことを恐れていたためとも言われています。

最終的に、彼らは破門されることなく、次の教皇によって1059年には正式に結婚が認められます。その際にした約束がカンに修道院を作ることでした。それが現在の男子修道院と女子修道院なのです。

カン女子修道院の内部
カン女子修道院の内部

結婚してからウィリアムはイングランドを侵略し(ノルマン・コンクエスト)、ノルマンディーだけでなくイングランド王の称号を得ます。しかしながら、順風満帆のように見える彼のキャリアとは裏腹に、彼の気性の荒さはとどまることを知らず、婚姻生活に如実に現れました。

言い伝えられるところによれば、ウィリアムのマティルダへの過度な暴力は続いていたようです。一番有名な話の一つは、馬の尻尾に彼女を縛り付け、カンの町中を引きずり回したとも言われています。そして、無関心を装う市民を横目に、「おお、なんて冷たい道なの!」と叫んだそうです。これが、現在のカンの旧市街にもあるla rue Froideの名前の由来となっています。文字通り「冷たい道」というわけです。

このようなウィリアムの癇癪を表す出来事は事欠きませんが、歴史家によればその正当性を示す文書は残されていないようです。また一方で、ウィリアムには愛人がいた、あるいは他の女性との間に子供がいたという記録も残っていません。これは当時の君主たちにとってはは稀なことでもありました。傍若無人な態度の反面、自らの出生がそうさせたのか、そう言った意味では、ウィリアムは妻のマティルダに対して誠実であったのかもしれません。

カン女子修道院のマティルダの墓
マティルダの墓

1083年にマティルダは夫より先に52歳で他界します。彼女の生前の意向を汲み、自らが創設した女子修道院の教会に埋葬されました。そして、その4年後、ウィリアムも亡くなります。彼もまたカンの男子修道院の教会で今も眠っています。カンの空の上で、2人は今どのような会話をしているのでしょうか?