19世紀のフランス絵画を変えた青色の顔料「ブルー・ギメ」とは?

化学者ギメが画家の妻のために発明した「ブルー・ギメ」が生み出したものとは?

絵を描くのに必要なものの一つが絵の具です。様々な色がある中で、原色でもある青色は絵画には欠かせない色です。今では当たり前のように使われているこの青色の絵の具ですが、まだ現在のような絵の具のチューブすら発明されていない18世紀までは青の顔料は高級品でした。

古来より壁画や絵画などに青色は使われていました。染料としても使われる藍の他に珍重されたのがラピスアズリと言われる石です。現在の日本では半貴石の一つとされ、現在ではダイヤモンドやルビー、サファイア、エメラルドなどの産出量が少ない貴重な宝石こと貴石に次ぐものとして扱われています。これを砕いて作ったものがいわゆるウルトラマリンという色で、文字通り「海を越えて」きたような深い青色です。

天然のウルトラマリンはその希少性から誰でも手を出せるようなものではありませんでした。それは多くの画家にとっても例外ではなかったのです。しかし、19世紀に入り、産業革命の波が押し寄せてくるフランスにおいて、ジャン=バティスト・ギメ(Jean-Baptiste Guimet)という化学者が人工の合成ウルトラマリンを生み出しました。これは当時のフランス絵画に新たな風を吹き込みました。

フレンチウルトラマリンこと「ギメ・ブルー」とは?

ブルー・ギメ

ジャン=バティストはフランス革命の最中の1795年にフランス南東部の街グルノーブル近郊にあるヴォワロン(Voiron)で生まれました。化学を専門とした理工学生として学生時代を過ごした後、公務員として火薬の管理に携わります。

転機が訪れたのは1826年。画家のロザリー=マルグリットと結婚をします。リヨン(Lyon)で生まれ、界隈では有名な画家の父と叔父が家族にいたことから、当然のように彼女も画家としての道を歩みます。親しい人たちにゼリー(Zélie)と呼ばれていた彼女の才能はみるみる開花し、当時では女性画家としては稀であったサロン(フランスの王立絵画彫刻アカデミーが主催する公式美術展覧会)への出品が認められるほどでした。

そんな化学と芸術という全く異なる分野に身を置く二人の出会いは、新たな化学変化を生み出します。当時、国の産業を奨励するためのコンクールが行われており、結婚する2年前の1824年はそのお題が高価だったウルトラマリンの代わりになる安価な合成ウルトラマリンでした。その知らせを聞きつけたジャン・バティストの他にも、フランス国内はもちろんイギリスやドイツ化学者が参加しました。しかしながら、この1度目のコンクールは誰も成功することなく終わります。

2年後の1826年。コンクールが再び行われることとなり、新婚のジャン・バティストただ一人が参加します。そして、その年の内に見事に合成ウルトラマリンを作るための製法を発見します。しかしながら、彼はすでに自分の特許を2つ盗まれた苦い経験から製法を公開をしませんでした。秘密を知っていたのはゼリーだけで、受賞ができると確信するまでは特許を申請しなかったのです。

その後、とあるドイツ人化学者が製法を発見し、自らの方が発明が早かったと主張します。しかしながら、最終的には1828年にはジャン・バティストの主張が認められ、コンクールの賞を受賞し、6000フラン(六万ユーロ弱)の賞金を手にしました。この合成ウルトラマリンは、彼の名前をとってフランスでは「ブルー・ギメ(bleu Guimet)」と呼ばれることとなり、日本ではフレンチウルトラマリンとも呼ばれています。

ギメ・ブルーがもたらしたものとは?

800px-Jean_Auguste_Dominique_Ingres,_Apotheosis_of_Homer,_1827
アングルの「ホメロスの神格化」(ルーヴル美術館)

ジャン・バティストが発明したブルー・ギメは、妻のゼリーをはじめとした多くの画家のパレットに大きな変化をもたらしました。天然のウルトラマリンに比べてはるかに安価な上に、絵を描く上で大事な豊かな色合いと安定性を有していました。そのため、例えば、ブルー・ギメの発明の翌年の1827年に発表されたアングル(Ingres)の「ホメロスの神格化(L’Apothéose d’Homère)」で早速使われました。左の青い服を着ている女性の青色がまさにブルー・ギメです。

アングルの「ホメロスの神格化」の絵画の解説(日本語)

もちろん、アングルだけでなくルノワール(Renoir)などその時代の先端を行く画家にも好まれて使われました。この新しい青色の発明によって、多くの画家のパレットに新たな可能性を与えたことは言うまでもないことでしょう。

ブルー・ギメについてもう一つ特筆すべきことは、絵画以外の分野にも使われたことでした。着色するための顔料としてはもちろん、本来少し黄色がかった色になる紙をいっそう白く見せるために着色するため、あるいは洗濯物の漂白、布地への印刷などにも応用されました。こうして様々な分野で使われた結果、ジャン・バティストは1831年に独立して工場を構えて以来、ブルー・ギメの需要は右肩上がりで伸び続け、莫大な資産を築くこととなります。

父から息子へ

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エミール・ギメが記した日本の旅行記

19世紀の後半に入り、この資産を受け継いだのがジャン・バティストの息子のエミールでした。彼はアメリカ、アフリカ、アジアなど世界中を旅し、1876年には日本にも降り立ちました。当時すでにフランスではジャポニスムの影響が絵画などにも現れ始めていましたが、実際に日本に降り立ったフランス人は数える程しかいませんでした。つまり、ジャポニスムは日本という国をどこか空想で捉えていた部分があったことは否めませんでした。

開国前夜、フランスのジャポニズムの黎明期

そんなアジアの東の果ての未知の国を覆うもやを取り払うように、エミール・ギメが自らの目で見た日本は克明に記録されました。その成果はパリ万博などでも発表され、当時のフランスが日本という国を理解する上で大きな助けとなりました。エミールはすでに起こっていたジャポニズムの流れを後押しし、さらに言えば血を通わせた人物の一人と言えるかもしれません。現在では、彼が日本から持ち帰った美術品や工芸品はパリにあるギメ美術館に保存されています。

もしジャン・バティストがゼリーと出会っていなかったら?そして、彼がブルー・ギメを発明していなかったら?そんな空想をしながら、フランスの19世紀の絵画を俯瞰すると、化学と芸術は遠いようで密接に繋がっているんだなと感じることができるのではないでしょうか。

 

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