時代と共に姿を変えたフランスの城
皆さんはフランスの城と聞いてどんな建物を思い浮かべますか?壁に囲まれたシノン城のような城塞でしょうか?シャンボール城やシュノンソー城のようなロワール渓谷の古城でしょうか?
小学館のデジタル大辞泉の定義によると以下のようになります。
- 城壁を巡らした町。天子や王の居所。都市。
- 防備のために堅固に築いた建造物。しろ。とりで。
このように、城と一口に言っても要塞のような防御目的のものから権力者が力を誇示すると同時に、居住空間としての建物を意識して建てたものまで様々です。それは日本でもフランスでも同じで、外見は違えどよく見ると同じ役割を持っていたり、時代に応じてその都度姿を変えていく点では両国に共通しています。
そこで、Tourisme japonaisではフランスで城や城塞巡りをする時に役立つフランスの城の知識と鑑賞のコツを数回に分けてご紹介したいと思います。今回は<古代編>です。
城という漢字に隠された城の原型の姿とは?
城という感じは「土」と「成」という2つの漢字で構成されています。土で成る、つまり土木作業でできたものです。そう言った意味で、城の原型は建物というよりは建築というよりは土木作業の要素が強いものと言えるでしょう。農耕文化が始まり、富の概念が生まれた弥生時代(紀前300年~紀元300年)の日本では空堀や柵で周囲を囲み、物見櫓で監視をする集落が出現し始めました。
一方で、ヨーロッパではローマ帝国がフランス各地に勢力を広げていきました(当時はまだフランスという国の枠組みは存在していません)。「全ての道はローマに通ず」という言葉はローマ人がインフラ整備に長けていたことを端的に表す言葉です。領土の各地からローマへ素早く軍を移動させるための道路整備を進めました。驚くべきことに、この時代にすでに歩道のある道を生み出していました。ちなみに、これは歩行者の安全を考えているわけではなく、有事の際に馬車が歩行者に邪魔されることなく走るためでした。
各都市には画一的に街を石を積み上げた城壁で囲み、2つの主要な道を十字を切るように街の中心で交差させ、そこに統治者の住居を建てました。また、城壁に沿って一定間隔で外に突き出た塔を配置することで、外敵の侵入をいち早く察知しすることができたのです。24時間耐久レースでも知られるル・マン(Le Mans)にある城壁ではフランスでは数少ないローマ時代当時の城壁を見ることができます。

ギリシャからローマへ
弥生時代の日本はというと、農業技術の発達とともに土木技術は発展する一方で、ヨーロッパに比べると大陸からの文化が流入するまでは石を扱う技術は発展途上でした。その一方で、ローマ人はギリシャから多くのものを学びました。ルーブル美術館などのギリシャで作られた多くの彫刻のコピーからも分かるように、ギリシャ人が生み出した技術を美術や建築など様々な分野で応用することで支配を盤石にしていきます。
ローマ人はパンテオンなどに見られる箱物の建築はもちろんのこと土木技術に優れていました。フランス南部のニーム(Nîmes)にある水道橋のポン・デュ・ガール(Pont du Gard)などはその一例ですね。
ローマ帝国の支配者が現在のイギリスを侵略・支配するためのフランスでの重要な起点であったブローニュ・シュル・メールの美術館の地下には彼らが作った紀元後4世紀の城壁の一部が残っています。後の支配者が中世に城を建て、改築を経て現在ではその城が美術館として使われているのですが、現在に至るまでその土台が使われているという事実はローマ人の確かな土木技術を裏付けるものです。

余談ですが、このブローニュ・シュル・メールのローマ時代の城壁にはかつての神殿に使われていた彫刻が施された石も使われていたりします。これは当時ローマ帝国が財政危機に陥っていたために再利用したものだと考えられています。日本の姫路城などの石垣でも墓石が使われたりしていますが、使えるものは使うという考えは時代や場所は違えど人類共通なんだなと思うと微笑ましいですね。
少しマニアックな内容でしたが、フランスの古城を楽しむコツ<古代編>いかがだったでしょうか?