ニース旧市街を歩いて感じる街の歴史
こんにちは。フランス政府公認ガイドの濵口謙司(@tourismjaponais)です。
フランス南部のコート・ダジュール(Côte d’Azur)はフランス屈指のリゾート地として知られています。フランス語で「紺碧海岸」という意味のこの地は、心が奪われてしまうほど鮮やかで美しい青い海が広がっています。
ニース(Nice)はその中心都市で、海岸に沿って伸びるプロムナード・デ・ザングレ(Promenade des Anglais)と呼ばれる遊歩道が有名です。
そのイメージが強いので「ニース=美しい海」という図式が出来上がりがちですが、街の歴史もとても興味深いものがあります。
今回はニースの街歩きが楽しくなる変わる街の歴史をご紹介します。
目次
1. ニースは昔イタリアだった?
意外に思われるかもしれませんが、ニースはもともとフランス領だったわけではありません。正式にフランスの一部となったのは比較的最近で、1860年のこと。それ以前は長い間サヴォイア家によって統治されていました。
サヴォイア家とは、現在のイタリア北部やフランス語圏スイス、そしてフランス南東部にまたがる領地を有した貴族で、1861年にイタリア統一後に王国が誕生した際に王家となった家柄です。
ニースがサヴォイア家の下にあったのは、現在のようなイタリアの骨格ができる前の話なので、ニースがイタリア領だったというわけではありません。
とはいえ、ニースがパリよりも地中海側のイタリア北部の街と似た雰囲気を持っているのは、長い間共有した歴史があるからと言えると思います。
2. プロムナード・デ・ザングレが一望できる中世の城跡へ
ニースの街の東端にある丘にはニース城(Château de Nice)と呼ばれる場所があります。現在は公園として整備されていますが、ここはかつての中世の城跡が残る丘。
この丘の上にある高さ92メートルの展望台からはプロムナード・デ・ザングレとニースの街並み、そして美しいコート・ダジュールの海岸線を一望できます。

実は、中世のニースの街はこの丘の上に築かれた城塞都市でした。丘の上からの眺望は街の防衛にも役立ったことは想像に難くありません。さらには、南側は海、ふもとには川が流れていて、自然の砦が形成されていました。
古くは10世紀に丘の上には城塞があったと考えられています。当時はプロヴァンス伯が支配していた城壁の中の街には、教会や市場などがあり、数千人の人が生活を営んでいたようです。このように、街は12世紀までは主にこの丘の上で発達していきました。
3. ニース旧市街を歩く
時とともに人口が増加し、丘の上の城壁の中だけでは収まりきらなくなったニース。人々は空いた場所を求めて丘のふもとに住むようになりました。
こうして丘の上の城内と新しい街である下町(現在の旧市街)という2つの街にが共存することに。元々の街には名士が住み続け、市場の権利などを独占したことから、商人たちはわざわざ丘の上まで出向く必要がありました。両者は対立し、いさかいが起こることもあったようです。
14世紀に入ると、ニースは前述のサヴォイア家によって治められるようになりました。以降、ニースはサヴォイア公国の交通の要衝として栄えていきます。港では交易が盛んになり、塩などの物資が出荷されました。
ニースは戦略的にも重要な場所であったことから、城塞の強化は繰り返し行われました。築いた富、そして街を守るためにもそれが必要だったからです。
しかし、16世紀になると、兵器や戦術の進化にともない、丘にあった以前の城塞は無用の長物と化していました。そのため、サヴォイア公爵は下町を含めて大きくなった街の周りを城壁を強化する一方で、城内にいた人々は丘を下りて暮らすようになりました。

海に面したニースの港は大きな富をもたらしていたため、当時の公爵はこれを街の発展にあてました。17世紀になると、新しく立派な教会が次々と作られ、貴族たちは大きな邸宅を作るようになりました。
雑然としていた下町からも中世の建物は消え、新しい建物が次々と建てられるようになっていきました。現在の旧市街の街並みは17世紀から18世紀にかけて作られたものですが、狭く入り組んだ道やその名前は中世の面影を残しています。

シンプルで飾りの少ない建物の数々は、赤や黄土色など鮮やかな色使いの外壁と淡い緑の窓が特徴的。どこかイタリアを思わせるその姿は、ニースがかつてフランスではなかった時代を今に伝えています。街を歩きながら、そんな歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
4. ニースへのアクセス
パリ・リヨン駅(Paris Gare de Lyon)から高速鉄道TGVで約6時間、Nice Ville駅下車。
フランス国内やヨーロッパの各都市からの空の便も充実しているので、飛行機の移動も便利です。