ルーアンと百年戦争の悲劇のヒロイン、ジャンヌ・ダルク

なぜジャンヌ・ダルクはルーアンで処刑されたのか?

こんにちは。フランス政府公認ガイドの濵口謙司(@tourismjaponais)です。

フランスの歴史的人物の中でも国民的な英雄として数えられるのがジャンヌ・ダルク(Jeanne d’Arc)。フランスとイングランドの間で争われた百年戦争(1337〜1453)において、フランスを勝利に導いたことで知られます。

一方で、ジャンヌ・ダルクの人生の幕引きは悲劇そのもの。最後はイングランドによってセーヌ川流域にあるノルマンディー地方の街ルーアンで処刑されました。

彼女が息を引き取った場所であるルーアンのヴュー・マルシェ広場(La place du Vieux-Marché)には現在では彼女に捧げられたサント・ジャンヌ・ダルク教会が立っています。

ところで、なぜジャンヌ・ダルクは破ったはずのイングランドの手に落ち、ルーアンで処刑されたのでしょうか?

目次

  1. 百年戦争でフランスを救ったジャンヌ・ダルク
  2. イングランド軍に捕らえられ火あぶりの刑に
  3. ルーアンとサント・ジャンヌ・ダルク教会へのアクセス

1. 百年戦争でフランスを救ったジャンヌ・ダルク

ジャンヌ・ダルクが生まれた時のフランス

ジャンヌ・ダルクは現在のフランス東部ロレーヌ地方のドンレミ(Donrémy)というところで1412年に生まれました。

裕福な農家の家庭に育ったジャンヌは13歳の時に天からの啓示を受けます。一説によると、大天使ミカエルが現れ、イングランドの手からフランスを救うように告げたそうです。

その当時、フランス王だったシャルル6世は精神病を患って発狂していたことから、その跡目を狙ってフランスは内戦状態の真っ只中にありました。そんな状況に乗じて攻め込んできたのがイングランド王のヘンリー5世でした。

1415年のアザンクールの戦いでの大勝をきっかけに、百年戦争の戦局はイングランドに大きく傾いていました。1417年には現在のノルマンディー地方を制圧。さらには、1420年に両国間で結ばれたトロワ条約により、次のフランス王になるはずだった皇太子のシャルル(後のフランス王シャルル7世)から相続権を奪い、自らが次のフランス王になることを認めさせました。

ジャンヌ・ダルクの登場

絶体絶命の状況に追い込まれたフランス。そこに現れたのが他ならぬジャンヌ・ダルクでした。

天の導きを受けたジャンヌは自らの体験を語り、周りの大人たちを動かします。周囲の助けもあり、シャルルとの面会を求めてロワール渓谷にあるシノン(Chinon)に向かいました。

シノン城に迎え入れられたジャンヌは、他の人に紛れていたにもかかわらず、難なく誰がシャルルが分かったとか。

シャルルが滞在していたシノン城(写真右)

シャルルに認められたジャンヌは、彼に任されたわずかな兵士たちを率いてイングランドに包囲されていたオルレアンへ。天啓を受けたジャンヌの存在はフランス軍の士気を高め、形勢は逆転。ついにはオルレアンを解放します。

その後、ジャンヌはシャルルにランス大聖堂に行き聖別してもらうように説きます。イングランドの同盟国であるブルゴーニュ公国にあったランスで戴冠したシャルルは、神に選ばれたフランス王として認められシャルル7世となりました。

2. イングランド軍に捕らえられ火あぶりの刑に

なぜジャンヌ・ダルクはルーアンに連行されたのか?

晴れてフランス王となったシャルル7世の下、フランス軍の進撃は続きます。一方で、フランスを窮地から救ったジャンヌはブルゴーニュ軍によって捕虜になり、イングランドに売り渡されました。

現在では荘厳なお城でも知られるパリの北東にあるコンピエーニュ(Compiègne)からジャンヌはルーアンに連行されました。

ルーアンは当時イングランドの支配下にありながら、街の商人や聖職者たちは敵軍を支持していました。つまり、ルーアンはイングランドにとって安全な場所だったということです。

ジャンヌ・ダルクの運命を分けた宗教裁判

ジャンヌ・ダルクはイングランドにとって厄介者であったことは明らか。しかしながら、彼女はすぐに処刑されず、宗教裁判にかけられました。

なぜすぐに処刑しなかったのか?これは実はシャルル7世がフランス王になった経緯と密接に関係しています。

シャルルは神のお告げを受けたジャンヌに導かれたおかげで、フランス王になりました。そこで、ジャンヌを宗教裁判にかけ、彼女が異端と認められれば、フランス王としてのシャルルの信憑性が失われるとイングランド側は考えたわけです。

サント・ジャンヌ・ダルク教会のステンドグラス

裁判はイングランドの思惑通りに進みました。大聖堂のあるボーヴェ(Beauvais)の司教やルーアンの聖職者たちによって行われた裁判により、ジャンヌは異端と審判されました。そして、彼女は異端者の処刑方法である火あぶりの刑に処されたのです。

ルーアンのビュー・マルシェ広場に連行され、火刑台に上ったジャンヌ。周りには武器を持った800近くの兵士たちが見守る中、死ぬ間際に大声で彼女はキリストの名を叫びました。その場に居合わせた人たちは哀れみからその多くが涙を流したとか。

1431年5月30日のことでした。

それから20年近くが経ち、百年戦争は終結。イングランドが支配していたノルマンディー地方はシャルル7世によって取り戻され、再びフランスの地となりました。その後、シャルル7世によってジャンヌの汚名は晴らされたのです。

人々の記憶から消えた?ジャンヌ・ダルクの死後

ジャンヌ・ダルクが処刑されたルーアンのヴュー・マルシェ広場に行くと、大きな十字架が建てられています。ここがまさに彼女は処刑された場所。

広場の周りを見渡すと、趣のある木骨づくりの建物が並んでいます。これらの建物の多くは17世紀から18世紀に建てられたもので、ジャンヌの悲劇を知るものではありません。

時が経ち、広場がその姿を変えて行く中、フランスを救ったヒロインの存在は人々の記憶から消えていきました。

再び、ジャンヌがフランスの人々によって讃えられるようになったのは19世紀になってからのこと。ジュール・ミシュレ(Jules Michelet)という歴史家がジャンヌを取り上げたことが直接のきっかけでした。

サント・ジャンヌ・ダルク教会前にあるジャンヌ・ダルク像

祖国を守る英雄として脚光を浴びるようになったジャンヌ・ダルク。さらには、カトリック教会によって1920年には聖人として認められました。1979年に建てられたサント・ジャンヌ・ダルク教会はまさに彼女に捧げられたもの。建物の入り口には彼女への信仰が形となった像が置かれています。

3. ルーアンのヴュー・マルシェ広場へのアクセス

パリ・サン・ラザール駅からTERなどで約1時間半。Rouen Rive Droite駅下車。駅からヴュー・マルシェ広場までは徒歩で約10分。

駅前から伸びる下り坂の大きな道を下りていくと旧市街にたどり着きます。