ノルマンディーのオンフルールの町並みに隠された歴史

観光前に読んでおきたい町の歴史のはじまり

こんにちは。フランス政府公認ガイドの濵口謙司(@tourismjaponais)です。

フランス北西部ノルマンディー地方にあるオンフルールはその港の美しさでも知られます。

オンフルールは19世紀後半に作曲家のエリック・サティが生まれた町でもあり、クロード・モネをはじめとした印象派の画家が多くの作品を生み出した場所でもあります。そして、現在では彼らの足跡をたどるようにして世界中から多くの観光客が訪れます。

カラフルな木骨づくりの街並みや教会、多くの船が停泊する港などオンフルールはどこを切り取っても絵になります。そんな美しい町並みですが、実はオンフルールの地理的な要素が大きく関係しています。

町の歴史とともに詳しく見ていきましょう。

目次

  1. 海と川の関わりによって形成された町
  2. 現在の町のシンボル「ヴュー・バッサン」を歩く

海と川の関わりによって形成された町

ヴァイキングからノルマンディー、そしてフランス王国へ

パリ、ルーアンなどを流域にもつセーヌ川の河口にあり、英仏海峡もすぐ目の前に広がるオンフルール。町の成り立ちはその名前からもうかがえます。オンフルールはフランス語で書くとHonfleur。諸説ありますが、Honというのは古ノルド語(古北欧語)で「角(つの、かど)」、fleurは古サクソン語(古英語)で「波」や「流れ」から来ていると言われています。

「角」をつけている人たちというと思い浮かぶのはヴァイキング。実はノルマンディーの祖先でもあり、ノルマン人と呼ばれたりもします。ノルマンディーの人たちのことを現在でもノルマン人(Normand)と言いますが、これも実は古ノルド語で「北方の人」という意味です。

中世の初めにかけて現在の北欧から南下してきたノルマン人たち。武装船団である彼らに当時の西フランク王シャルル3世(現在のフランス)は頭を悩ましていました。

どのようにノルマン人の猛威から自分の国を守るのか?

熟考の末、シャルル3世が出した結論とは、王に忠誠を誓わせ臣下として迎える代わりに土地を差し出すことでした。こうして、ノルマン人の首長ロロは王の娘と結婚し、ノルマンディー公となったのです。9世紀初めのことでした。

ノルマンディー公国の一部であったオンフルールは港として栄え、漁業は町に多くの富をもたらしました。13世紀にノルマンディー自体がフランス王国に併合された後も、町の目の前に広がる海はオンフルールの発展に大きく貢献していくことになるのです。

セーヌ川沿いの森がもたらしたもの

オンフルールの旧市街を歩くと木骨づくりの古い家が多くあることに気づきます。つまり、昔は石よりも木材が手に入りやすかったことが想像できます。実はセーヌ川沿いには多くの森があり、そこから切り出し運んできていたのです。

サント・カトリーヌ教会

安価な資材である木材の豊富さは現在に受け継がれる町並みを形成するだけでなく、船を作るために使われました。そして、住民たちは造船だけにとどまらず、船に乗って私掠行為、つまり合法的に外国の敵船を攻撃し略奪するようになります。

また同時に、船の装備を整える会社を作って富をたくわえ貴族や中産階級にのし上がる人が増えていきます。中には元々農民だった人もいたようです。

ちなみに、こうして造船で培われた技術がフランスでも珍しい木造の教会のサント・カトリーヌ教会を生み出した一因となっています(詳しくは下記の記事からどうぞ)。

大航海時代がオンフルールにもたらした富

海が近くにあるという地理的要因を最大限に生かしてオンフルールは漁業、交易、そして私掠行為によって潤うようになりました。15世紀末になると、海の男たちは近海にとどまらず、さらに遠くを目指すようになります。大西洋にまだ見ぬ土地を求めて旅立っていった船の中にはオンフルール出身の船長が少なからずいました。

16世紀初めには大西洋を横断し、ブラジルに到着していた彼らですが、さらにはジャン・ドニ・オンフルール(Jean Denis d’Honfleur)という冒険家が現在のカナダのセントローレンス川の河口を探検しました。

現在のカナダのケベック州をフランスが領有するようになったのは、サン・マロ出身の冒険家ジャック・カルティエの功績によるものですが、それよりも早くオンフルールの冒険家は現在のニューファンドランド島を植民地としました。こうして、タラの漁場であったこの島の近海を多くのフランス漁船が目指すようになりました。

大西洋を横断して持ち帰られたタラは1510年頃にはセーヌ川の川上にあるパリの市場に並ぶように。食肉文化が現在のように一般の庶民になかった時代において、タラは「海の肉」とも言えるほど珍重されたことでしょう。

それと同時に、植民地としてのアメリカ大陸の可能性を認識したフランス王にとって、英仏海峡から大西洋へとつながる港町であるオンフルールはますます重要な役割を担うようになっていったのです。

現在の町のシンボル「ヴュー・バッサン」を歩く

ヴュー・バッサン

町の繁栄ぶりは17世紀から18世紀にかけても衰えることはありませんでした。現在のオンフルールの代名詞とも言える「ヴュー・バッサン(Vieux bassin)」はこの時期の町の賑わいを今に伝えるもの。

それと同時に、ルイ14世治下の1680年代に作られたこの港はその当時のオンフルールの国にとっての重要性を物語っています。港の船の入り口には1684年からフランス革命まで王の代官が使っていた建物(La Lietenance)があることからもそれが分かります。ここから入港する船を監視していたのでしょうか。

王の代官が使っていた建物(写真右)

ヴュー・バッサンの見どころの一つといえば、港の水面に映る建物の数々。実は、これらのほとんどがこの時期に建てられたもの。特徴的なのは木骨づくりの建物が正面部分がスレートやレンガなどで覆われていることです。

海路で海に入ってきた航海者たちは、一見すると石造りの建物に囲まれたこの港を見て町の豊かさを感じたのではないかと思います。ちなみに、建物によっては下の部分は木組みの部分が見えるので、探してみると散策の楽しみが増えます。

これまで駆け足でオンフルールの歴史を振り返ってみました。どんな町の景色にもその裏には歴史があり、その場所の地理と大きく結びついている気がします。オンフルールを歩きながら昔の港や町の様子を重ねて想像してみると、町歩きがさらに楽しくなるのはないでしょうか。