フランス各地の地名などで聞かれるサン・マルタンとは?
こんにちは。フランス政府公認ガイドの濵口謙司(@tourismjaponais)です。
フランスの歴史、そして建築や美術を語る上で、キリスト教、特にカトリックの影響は無視できません。
フランスを旅行すると、パリなどの大きな街から田舎の小さな村まで、大小様々な形の教会を目にします。建築年代や様式の違いはあれど、それらの教会には共通するものがいくつかあります。その一つが、名前です。
フランスに限らず、ヨーロッパには同じ名前の教会がたくさんあります。代表的なものの一つはノートルダムでしょうか。ノートルダム(Notre-Dame)とは、フランス語で聖母マリアのこと。例えば、ノートルダム大聖堂といえば、パリのものが有名ですが、ノートルダムのついた教会はフランスの至るところにあります。
また、サン・ポール、サン・マルクなどの聖人(サンはフランス語で聖人を指し、日本語では聖パウロ、聖マルコなどと訳されることもある)の名前を冠したところも多くあります。
美しいお城の数々で有名なロワール渓谷の観光の起点となる街トゥール。この街を観光する際に、よく耳にする聖人の名前がサン・マルタン(Saint-Martin)*です。
偉大な聖人であった彼の墓があるトゥールは、かつて、西ヨーロッパで一番重要な巡礼地の一つでもありました。なぜ、サン・マルタンはそこまで多くの人を惹きつけたのでしょうか?
*日本語ではラテン語の発音から、マルティヌスと呼ばれることもあります。本記事ではマルタン、死後に聖人となってからはサン・マルタンの呼称を使っています。
目次
1. マルタンの運命を変えた有名なマントの逸話
サン・マルタンは、316年に現在のハンガリーにあたるローマ帝国の属州パンノニアで生まれました。若くしてローマ軍に入隊後、イタリア、そしてガリア(現在のフランス、ベルギー、スイスなどにあたる)に派遣されました。

兵士としての任務についていた337年のとある冬の日のこと。当時、マルタンはまだガリアの一部だった現在のフランス北部の街アミアン(Amiens)に駐留していました。そこで、彼は街の城門近くで寒さで震える物乞いに出会います。不憫に思ったマルタンは、自らのマントを半分に切って、物乞いに差し出しました。
その日の夜のこと。マルタンは夢の中で、彼が渡した残り半分のマントを着た人物に出会い、感謝を告げられました。実は、昼間出会った物乞いの正体はなんとキリストだったのです。目を覚ましたマルタンは、その体験から天命を感じ、ローマ軍を去り、キリスト教に改宗することを決意します。
当時のローマ帝国では、キリスト教は皇帝によって公認されていたとはいえ、まだ国教ではなく、迫害も絶えませんでした。そんな中、皇帝から退役の許可を得るのは簡単ではなかったようです。しかしながら、その数年後にはようやく洗礼を受け、晴れてキリスト教徒となりました。
2. ローマ兵からトゥールの司教になったマルタン
フランス西部のポワティエの教会の司祭のもと、聖職者としてのキャリアを始めたマルタン。献身的な活動もあって、彼の名声は年とともに高まるばかり。そして、370年にはついにトゥールの司教まで上り詰めます。彼は司教の任務をこなしながらも、ロワール川のほとりに自らが創設したマルムティエ修道院(Abbaye de Marmoutier)の修道士として生活をし続けました。
彼は、自らの教区のみならずフランス西部にて布教活動を続け、各地に教会や修道院を設立していきました。その決意は並並ならぬもので、時には、キリスト教に敵対するものに対して武力に訴えることも辞さなかったようです。実際に、異教の神殿などを燃やすことさえありました。
時は流れ、彼が81歳だった397年のこと。聖職者同士のいさかいの仲裁のためにやってきたカンド(現在のカンド・サン・マルタン)という町で息を引き取ります。マルタンの死後、彼の遺体をどうするのか、マルタンをとても慕っていた聖職者たちの議論は平行線をたどりました。彼らは自分たちの町でマルタンを祀りたかったのです。
そんな中、聖職者たちの隙をぬって、トゥールの人たちが自分たちの街の司教の亡骸をこっそりと船で運び出しました。驚いたことに、その道中、船の通る川沿いの花が11月にもかかわらず咲きはじめたそうです。
現在では、彼の聖人の祝祭日である11月11日のあと、冬に入る前の寒気のゆるみのことをフランス語で「サン・マルタンの夏(l’été de la Saint-Martin)」と呼びますが、それはこの彼の死後の奇跡に由来しています。
3. 「チャペル」の言葉の由来はサン・マルタンのマント
サン・マルタンの功績や奇跡は、彼の死後も語り継がれることに。そして、彼のためにトゥールに建てられたバジリカ聖堂(ローマ教皇によって特別な権限を与えられた教会堂のこと)は、エルサレムやローマに次ぐ中世のヨーロッパ最大の巡礼地の一つになりました。
ちなみに、かの有名なマントも聖遺物(キリストやマリア、聖人の遺品または遺骨のことで、信仰の対象となる)としてここに保管されました。
ラテン語ではこのマントは「capella」と呼ばれていましたが、これを保管するところが「フランス語のchapelle(英語ではchapel)」、つまりチャペルの語源となっています。
また、無伴奏で合唱や重唱を行うことをアカペラ(a cappella)と言いますが、これも同じくサン・マルタンのマントが起源となっています。

現在では、サン・マルタン信仰の中心はトゥールのサン・マルタン・バジリカ聖堂(Basilique Saint-Martin)にあります。
彼の墓を納めた建物は、その後何度も建て替えられ、今日のものは19世紀にできたもの。地元出身の建築家ヴィクトル・ラルー(Victor Laloux)によって作られたもので、彼はトゥール駅やトゥールの市庁舎の他に、パリのオルセー美術館(建築時はオルセー駅)の設計者としても知られます。

建物の中に足を踏み入れると、荘厳な雰囲気に思わず圧倒されます。フランスではあまり見られない重厚なつくりのこのバジリカ聖堂は、ネオ・ビザンティン建築で作られています。
東ローマ帝国でよく用いられ、現在でも東ヨーロッパの正教会などに見られるビザンティン建築の流れを汲んでいて、中央のドームや半円のアーチが印象的。地下礼拝堂には、復元されたサン・マルタンの墓もあります。巡礼者たちはここにたどり着くため、遠い道のりを歩くのです。
現在、フランスでは約500の自治体と4000もの小教区にサン・マルタンの名前がつけられているそうです。彼の足跡は色々なところに残されています。トゥールはもちろんですが、彼の名前のつく地名や教会を訪ねたときは、注意深く周りを見渡してみてください。もしかしたら、彼にまつわる何かを発見できるかもしれませんね。