モン・サン・ミッシェルの知られざる歴史とその姿とは?

時代とともに姿を変えたモン・サン・ミッシェル修道院

こんにちは。フランス政府公認ガイドの濵口謙司(@tourismjaponais)です。

あなたはモン・サン・ミッシェルと聞いてどんな姿を思い浮かべますか?

モン・サン・ミッシェルは世界中、そして日本でも高い知名度を誇ることもあり、誰もが美しい三角形のシルエットを容易にイメージすることができるのではないかと思います。

実は、モン・サン・ミッシェルは昔から今のような姿をしていたわけではありません。時代とともに、そして激動の歴史を経て今の姿となったのです。

今回はそんなモン・サン・ミッシェルの知られざる歴史を少しだけお話しします。

目次

  1. 巡礼地から刑務所へと姿を変えたモン・サン・ミッシェル
    1. かつての姿を今に伝えるモン・サン・ミッシェルの精巧な模型
    2. モン・サン・ミッシェルはかつて刑務所だった?
  2. 新たな姿に生まれ変わるモン・サン・ミッシェル
    1. フランスで歴史ある文化遺産を守る機運が高まった19世紀
    2. モン・サン・ミッシェルにあった刑務所が閉鎖に
    3. モン・サン・ミッシェルが今の姿になったのは19世紀末

巡礼地から刑務所へと姿を変えたモン・サン・ミッシェル

かつての姿を今に伝えるモン・サン・ミッシェルの精巧な模型

モン・サン・ミッシェルは自然美と建築美が見事に調和したユネスコ世界遺産の一つでもあります。

誤解されがちですが、モン・サン・ミッシェルはお城ではなく、島の上あるのは修道院です。今ではすっかり湾の美しい景色に調和していますが、その姿は10世紀半ばにこの地にベネディクト会の修道院が創設された時、つまり、現存する建物の原型が作られ始めた時期から同じだったわけではありません。

17世紀末に作られたモン・サン・ミッシェルの立体模型

上の写真の模型は17世紀末にモン・サン・ミッシェルの修道院の僧侶が作ったもの。ルイ14世に献上されたこの模型は、現在ではパリにあるオテル・デ・ザンヴァリッド(Hôtel des Invalides)内にある立体模型博物館(musée des Plans-reliefs)に保存されています。

この模型を見ると、誰もが知っているようで知らないモン・サン・ミッシェルの新たな一面を知ることができます。実は、この模型は修道院のかつての姿を知る大変貴重な資料でもあります。

かつてのモン・サン・ミッシェルは、中世にはヨーロッパでもスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラなどと並んで有数の巡礼地として栄えていました。島へ続く道は「天国の道」と呼ばれ、身分を問わず多くの巡礼者が修道院を訪れました。

しかし、モン・サン・ミッシェルはイギリスとフランスの百年戦争(1337年〜1453年)などの影響もあり、巡礼者の数が徐々に減っていきます。戦争の後は再び盛り返しますが、フランス革命が勃発する18世紀末にかけては衰退の一途を辿りました。

モン・サン・ミッシェルはかつて刑務所だった?

実は、このモン・サン・ミッシェルの模型が作られた17世紀末から18世紀にかけては、修道院の一部は牢獄として使われるようになっていました。

刑務所時代のモン・サン・ミッシェル修道院

なぜモン・サン・ミッシェルは牢獄として使われるようになったのでしょうか?

それはフランス王が海に囲まれているモン・サン・ミッシェルの地理的な要素が、政敵を流刑に処するのに最適だと考えたからでした。こうして、モン・サン・ミッシェルはパリのバスティーユ牢獄にちなんで「海のバスティーユ」とも呼ばれていました。

時は流れ、1789年にパリのバスティーユ牢獄は襲撃され、フランス革命が勃発します。それをきっかけにモン・サン・ミッシェル修道院は国が没収し、修道士は全員追い出され、建物は国の管理下に置かれるように。その後、修道院の建物は刑務所として使われるようになりました。

その結果、修道院の建物は管理が行き届かなくなり時間とともに荒廃の一途をたどることに。こうして、モン・サン・ミッシェル修道院はかつての輝きを失ってしまったのです。

新たな姿に生まれ変わるモン・サン・ミッシェル

フランスで歴史ある文化遺産を守る機運が高まった19世紀

19世紀になると、芸術や文学などでゴシック美術などの中世の遺産を再評価する動きがフランスで見られるようになります。その動きを代表する人物の一人が「レ・ミゼラブル」などで知られるフランスを代表する作家ヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo)でした。

今では当たり前のことのように考えられていますが、文化財という概念は当時のヨーロッパにおいても芽生え始めたばかりのものでした。そんな中、歴史のある建造物を保護し修復するという考え方がフランスではすでに芽生えていたのです。

ちなみに、その流れを受けて19世紀の半ばにパリのノートルダム大聖堂なども修復されました。2019年4月の痛ましい火災で焼失してしまった尖塔もその時期に建てられたものです。

モン・サン・ミッシェルにあった刑務所が閉鎖に

フランス国内で文化遺産を守る機運が高まる中、ヴィクトル・ユーゴーはかつてのモン・サン・ミッシェル修道院の建物を刑務所として使うことを批判しました。

そんな中、刑務所を維持する費用がかさむようになったことなどもあり、当時のフランスの権力者ナポレオン3世はモン・サン・ミッシェルの刑務所の閉鎖を決定します。

19世紀末の修復中のモン・サン・ミッシェル

そして、モン・サン・ミッシェルは1874年に歴史的建造物に指定されます。それとほぼ同時期に、刑務所時代を経て往時の輝きを失った修道院の修復作業が開始されたのです。

モン・サン・ミッシェルが今の姿になったのは19世紀末

こうして始まったモン・サン・ミッシェル修道院の修復は建物の内部のみならず外観にも大きな影響を及ぼしました。当時の建築家はモン・サン・ミッシェルに新たな息吹を吹き込んだのです。

冒頭でご紹介した17世紀のモン・サン・ミッシェルの模型をもう一度見てみてください。普段見慣れている現在の姿とは少し違いがあるのにお気づきでしょうか?

いくつかの違いがあるのですが、一番の違いは建物の中心部から空に向かって伸びる尖塔とその頂にある大天使ミカエルの像です。実は今のようなモン・サン・ミッシェル修道院の姿になったのは1897年のことで、この時に今のような美しいピラミッド型のシルエットが完成したのです。

現在のモン・サン・ミッシェル

このように、3世紀前の模型と今の建物を比べながら歴史を辿っていくと、社会や思想の変化が建物の外観にも表れることが分かります。それが建築を見る楽しみの一つと言えるかもしれませんね。

モン・サン・ミッシェルには知られざる歴史がまだまだあります。この続きはぜひ現地発のガイドツアーでどうぞ!