意外に知られていないかつてのモン・サン・ミッシェルの姿とは?

時代とともに姿を変えたモン・サン・ミッシェル修道院

自然美と建築美が見事に調和したモン・サン・ミッシェル(Mont-Saint-Michel)。その高い知名度もあり誰もがその姿をイメージするのが容易いユネスコ世界遺産の一つでもあります。島の上に建てられた修道院は今ではすっかり湾の美しい景色に調和していますが、その姿は10世紀半ばにベネディクト会の修道院が創設された時から同じだったわけではありません。

下の写真の模型は17世紀末にモン・サン・ミッシェルの修道院の僧侶が作ったもので、その後ルイ14世に献上されたものです。現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(Hôtel des Invalides)に保存されているこの精密な模型は、誰もが知っているようで知らないモン・サン・ミッシェルの新たな一面を私たちに見せてくれます。実は、この模型は修道院のかつての姿を知る大変貴重な資料でもあるのです。

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17世紀末に作られたモン・サン・ミッシェルの模型

知られざるかつてのモン・サン・ミッシェルの役割とは?

かつてのモン・サン・ミッシェルは、中世にはヨーロッパでもスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラなどと並んで有数の巡礼地として栄えていました。島へ続く道は「天国の道」と呼ばれ、身分を問わず多くの巡礼者が修道院を訪れました。

しかし、モン・サン・ミッシェルはイギリスとフランスの百年戦争(1337年〜1453年)などの影響もあり、巡礼者の数が徐々に減っていき、近世にかけては衰退の一途を辿りました。実は、この模型が作られた17世紀末から18世紀にかけてはその一部を牢獄として使われるようになっていました。これはフランス王が海に囲まれているモン・サン・ミッシェルの地理的な要素が、政敵を流刑に処するのに最適だと考えたからです。そのため、フランス革命の時に襲撃されたパリのバスティーユ牢獄にちなんで「海のバスティーユ」とも呼ばれていました。

そして、1789年のフランス革命を契機に修道士は全員追い出され、修道院は国の管理下に置かれます。その後、完全に刑務所としてのみ使われるようになります。その結果、修道院の建物は管理が行き届かなくなり時間とともに荒廃。こうして、修道院はかつての輝きを失ってしまったのです。

新たな姿に生まれ変わるモン・サン・ミッシェル

そんな無残な姿になってしまったモン・サン・ミッシェルですが、時代の後押しもあり救いの手が差し伸べられます。芸術や文学などでゴシック美術などの中世の遺産を再評価する動きがフランスで見られるようになり、19世紀を代表するフランスの作家のヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo)などが中世の建築様式で建てられたかつての修道院を刑務所として利用することを非難したのです。

今では当たり前のことのように考えられていますが、文化財という概念は当時のヨーロッパにおいても芽生え始めたばかりのものでした。そんな中、歴史のある建造物を保護し修復するという考え方がフランスではすでに芽生えていたのです。ちなみに、その恩恵を受けてパリのノートルダム大聖堂なども修復されました。同じ時代に幕末を迎えていた江戸時代では考えられないことですね。

こうした国内の機運の高まりと刑務所を維持する費用が嵩んだこともあり、ナポレオン3世はモン・サン・ミッシェルの刑務所の閉鎖を決定します。そして、モン・サン・ミッシェルが歴史的建造物に指定されたのが1874年のこと。それとほぼ同時期に、刑務所として使用するために著しく改築されていた修道院の修復作業が開始されたのです。

ちなみに、この時当時の建築家はモン・サン・ミッシェルに新たな息吹を吹き込んだのです。上の写真の模型を見てみると、普段見慣れている現在の姿とは少し違いがあるのにお気づきでしょうか?

いくつかの違いがあるのですが、一番の違いは建物の中心部から空に向かって伸びる尖塔とその頂にある大天使ミカエルの像です。実は今のようなモン・サン・ミッシェル修道院の姿になったのは1897年のことです。こうして10世紀以来姿を変え続けたモン・サン・ミッシェル修道院は19世紀末になりようやく今の姿となったのです。

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現在のモン・サン・ミッシェル

こうして、3世紀前の模型と今の建物を比べながら歴史を辿っていくと、社会や思想の変化が建物の外観にも表れることが分かります。それが建築を見る楽しみの一つと言えるかもしれませんね。

モン・サン・ミッシェルの日本語現地ガイドツアー

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