モネと印象派画家たちが通ったジヴェルニーの旧オテル・ボーディを訪ねて

ボーディ夫妻とある若きアメリカ人画家の交流から始まった物語

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旧オテル・ボーディの入り口

ジヴェルニーといえばモネの家(Maison de Claude Monet)があまりにも有名ですが、他にも見るべきところはたくさんあります。印象派美術館(Musée des impressionnismes Giverny)やモネの墓がある聖ラドゴンド教会(Église de Sainte Radegonde)の他にぜひ訪れてほしいのが旧オテル・ボーディ(Ancien Hôtel Baudy)です。近くに居を構えていたモネはもちろんのことセザンヌなど名だたる印象派の画家が足繁く通った場所なのです。

このオテル・ボーディはジヴェルニーにモネが居を構えた1883年にはまだ存在していませんでした。当時は現在のような印象派の総本山としてのジヴェルニーの名声はフランス国内でさえ知れ渡っていませんでした。そんなフランスのどこにでもあるような小さな村に、あるアメリカ人の若者がやって来ました。そこから、後に名だたる印象派の画家たちが集うようになるオテル・ボーディの物語は始まるのです。

ボーディ夫妻とウィリアム・メトカーフの出会い

旧オテル・ボーディの内部
旧オテル・ボーディの内部

1886年春。

パリの私立美術学校アカデミー・ジュリアン(Académie Julien)の学生ウィリアム・メトカーフ(William Metcalf)は電車に乗ってノルマンディーに向かっていました。パリから現在もジヴェルニーの最寄りの鉄道駅となっているヴェルノン(Vernon)へ、そこから小さなローカル電車に乗り換えてジヴェルニーに。

旅の道中、ノルマンディーの田園風景、特にりんごの花が咲く素晴らしい春の景色にウィリアムは魅惑されます。彼はすぐに画材を持ってこなかったことを後悔したものの、すでに手遅れでした。時間はすでに正午近く。あてもなく歩いていると、2色の煉瓦造りの建物が目に飛び込んで来ました。そこはアンジェリーナ(Angélina)とガストン(Gaston)のボーディ夫妻が経営していた小さなスナックバーでした。それはまさにジヴェルニーの運命を変える一つの出会いでした。

とはいえ、彼らの出会いは最初はとてもぎこちないものでした。ウィリアムはフランス語が流暢ではなく、彼を迎えたアンジェリーナは彼の言っていることはちんぷんかんぷんだったからです。それでも、何とかアンジェリーナに理解してもらえたウィリアムは何とか昼食にありつけました。そして、宿泊先も決まっていなかった彼は、さらにボーディ夫妻の家に泊めてもらえないかと交渉をしましたが、アンジェリーナは即座に断りました。旅人すらほとんど来ない田舎の小さな村に突然現れた異様な風貌の毛むくじゃらの大男に、アンジェリーナは恐怖心すら抱いていたのです。

オテル・ボーディの誕生

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旧オテル・ボーディの庭園

最初のジヴェルニー訪問から15日後。

すっかりノルマンディーの春の魅力の虜になったウィリアムは再びジヴェルニーを訪れることを決意します。そして、今度は二人の画家仲間と一緒にボーディ夫妻のスナックバーを訪れます。彼らがイーゼル(画架)を抱えているのを見て、アンジェリーナはようやく彼らが画家であることが分かります。そして、彼女はウィリアムに自分が勘違いしていたことを詫び、彼らに夫妻の部屋を使うように勧めました。また、この時初めて、ウィリアムたちにとって絵画の最先端を体現しているモネが近くに住んでいることを知り、彼を訪ねました。こうして、モネと若きアメリカ人画家達の交流が始まります。

パリに帰った彼らはジヴェルニーやボーディ夫妻、そしてモネのことをあちこちで話して回るようになり、時を重ねるごとにジヴェルニーを訪れる若い画家が増えていきました。そして、ついにボーディ夫妻はホテルを建てることを決意します。こうして生まれたのが現在のオテル・ボーディの建物です。

1887年には庭にアトリエを建て、主棟には20の部屋と食堂、そして2つのアトリエを作りました。2つ目の建物には3つの部屋とビリヤード場を設け、ついに1891年に落成しました。これを境にさらに多くの画家が集まるようになり、ジヴェルニーを起点に創作活動を始めるようになります。彼らは友情の証として自分たちの書いた絵を夫妻に贈り、夫妻はその絵をホテルの壁に飾りました。時には画商や収集家がオテル・ボーディを訪れ、画家たちから直接を買うことも珍しくなくなりました。

印象派画家の交流の場として

オテル・ボーディを訪れた芸術家たち
オテル・ボーディの前には訪れた芸術家たちの名前が刻まれている

村人たちに「アメリカ人画家たちのホテル」と呼ばれるようになったオテル・ボーディは、アンジェリーナの熱意もあり、ジヴェルニーに来る画家たちの交流の場となりました。たとえオテル・ボーディに宿泊していなくても、食事は一緒にオテル・ボーディで取る画家も多くいました。

画家たちはノルマンディーの自然と向き合い創作活動に励む一方で、楽しむことも忘れませんでした。オテル・ボーディでは音楽や劇、ダンスのコンクール、仮装舞踏会までも催され、その後、画家たちだけでなく好奇心から多くの人がオテル・ボーディを訪れるようになり、最初は距離を置きがちだった村人たちも集うようになります。こうして、オテル・ボーディは世代や出身、国籍などの壁を超えて様々なバックグラウンドをもつ人たちが集う国際的な出会いの場所となっていきました。

カミーユ・ピサロは友人の一人に向けての手紙の中にこう書いたそうです。

「ジヴェルニーのオテル・ボーディに行ってみなさい。そこには絵を描くために必要なもの全てと最高の仲間がいるから。」

ピサロの手紙はオテル・ボーディが当時の芸術家にとってどういう存在だったかを物語っています。モネやセザンヌ、ルノワール、シスレーなどの画家だけでなく、ロダンなどもボーディ夫妻が切り盛りするホテルを訪れています。こうして、1887年から第一次世界大戦が勃発する1914年まで、オテル・ボーディはジヴェルニーを訪れる印象派の画家たちを暖かく迎え続けました。

現在、オテル・ボーディの建物は当時のまま保存され、レストランとして使われています。建物の一部や庭園、そしてアトリエは一般に公開されているので、食事やコーヒーなどで一息ついた後にお店の人に聞いてみてください。レストランの裏には、あのアメリカ人青年画家や名だたる画家たちが創作活動に打ち込み、たくさんの楽しい夕べを過ごした光景がそこに広がっています。

旧オテル・ボーディのアトリエ

 

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