サン・マルタンの巡礼とロワール渓谷の街トゥール

ローマ兵からトゥールの司教へ

フランス西部のポワティエの教会の司祭のもと、聖職者としてのキャリアを始めたマルタン。献身的な活動もあって、彼の名声は年とともに高まるばかり。そして、370年にはついにトゥールの司教まで上り詰めます。彼は司教の任務をこなしながらも、ロワール川のほとりに自らが創設したマルムティエ修道院(Abbaye de Marmoutier)の修道士として生活をし続けました。

彼は、自らの教区のみならずフランス西部にて布教活動を続け、各地に教会や修道院を設立していきました。その決意は並並ならぬもので、時には、キリスト教に敵対するものに対して武力に訴えることも辞さなかったようです。実際に、異教の神殿などを燃やすことさえありました。

時は流れ、彼が81歳だった397年のこと。聖職者同士のいさかいの仲裁のためにやってきたカンド(現在のカンド・サン・マルタン)という町で息を引き取ります。マルタンの死後、彼の遺体をどうするのか、マルタンをとても慕っていた聖職者たちの議論は平行線をたどりました。彼らは自分たちの町でマルタンを祀りたかったのです。

そんな中、聖職者たちの隙をぬって、トゥールの人たちが自分たちの街の司教の亡骸をこっそりと船で運び出しました。驚いたことに、その道中、船の通る川沿いの花が11月にもかかわらず咲きはじめたそうです。

現在では、彼の聖人の祝祭日である11月11日のあと、冬に入る前の寒気のゆるみのことをフランス語で「サン・マルタンの夏(l’été de la Saint-Martin)」と呼びますが、それはこの彼の死後の奇跡に由来しています。

サン・マルタンの巡礼の発展

サン・マルタンの功績や奇跡は、彼の死後も語り継がれることに。そして、彼のためにトゥールに建てられたバジリカ聖堂(ローマ教皇によって特別な権限を与えられた教会堂のこと)は、エルサレムやローマに次ぐ中世のヨーロッパ最大の巡礼地の一つになりました。

ちなみに、かの有名なマントも聖遺物(キリストやマリア、聖人の遺品または遺骨のことで、信仰の対象となる)としてここに保管されました。ラテン語ではこのマントはcapellaと呼ばれていましたが、これを保管するところがフランス語のchapelle(英語ではchapel)、つまりチャペルの語源となっています。また、無伴奏で合唱や重唱を行うことをアカペラ(a cappella)と言いますが、これも同じくサン・マルタンのマントが起源となっています。

トゥールのサン・マルタン・バジリカ聖堂。サン・マルタンの生誕1700周年の2016年に修復を終え、建物の中央にあるドームの上には修復された彼の像が取り付けられた。

現在では、サン・マルタン信仰の中心はトゥールのサン・マルタン・バジリカ聖堂(Basilique Saint-Martin)にあります。彼の墓を納めた建物は、その後何度も建て替えられ、今日のものは19世紀にできたもの。地元出身の建築家ヴィクトル・ラルー(Victor Laloux)によって作られたもので、彼はトゥール駅やトゥールの市庁舎の他に、パリのオルセー美術館(建築時はオルセー駅)の設計者としても知られます。

建物の中に足を踏み入れると、荘厳な雰囲気に思わず圧倒されます。フランスではあまり見られない重厚なつくりのこのバジリカ聖堂は、ネオ・ビザンティン建築で作られています。東ローマ帝国でよく用いられ、現在でも東ヨーロッパの正教会などに見られるビザンティン建築の流れを汲んでいて、中央のドームや半円のアーチが印象的。地下礼拝堂には、復元されたサン・マルタンの墓もあります。巡礼者たちはここにたどり着くため、遠い道のりを歩くのです。

現在、フランスでは約500の自治体と4000もの小教区にサン・マルタンの名前がつけられているそうです。彼の足跡は色々なところに残されています。トゥールはもちろんですが、彼の名前のつく地名や教会を訪ねたときは、注意深く周りを見渡してみてください。もしかしたら、彼にまつわる何かを発見できるかもしれませんね。

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