レンヌとナント、ブルターニュの二都物語

ブルターニュの行政の都がナントからレンヌに移った理由

ブルターニュの併合など領土の拡大に伴って、歴代のフランス王は各地に高等法院(Parlement)を設置しました。高等法院は王の名の下、刑事と民事を扱う控訴院の役割を果たす司法権限を有するだけでなく、王令を登録して法律との整合性を審査する行政的な役割も担う機関でした。

ブルターニュ高等法院
レンヌのブルターニュ高等法院

ブルターニュでは16世紀の半ばにアンリ2世(Henri II)によって常設の高等法院がナントとレンヌ(Rennes)に設置され、当初は交互にその役割を果たしていましたが、ナントに落ち着きました。一説によると、大西洋に続くロワール川沿岸にあり港町であるナントの経済力がいずれ反乱を引き起こすことを王が恐れたためと言われています。

この決定が結果的にレンヌがブルターニュ地方の行政上の首都であり、今現在もブルターニュの首都である理由でもあります。レンヌではブルターニュ高等法院が今でも残されており、現在も司法の役割を果たしています。

ナントがブルターニュの経済の都になったその黒い歴史

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ナントを流れるロワール川

ブルターニュにおける行政・司法上の権力を失ってしまったナントは、経済的な首都として君臨を続けます。大西洋にほど近いロワール川(La Loire)流域あるという地理的要因も後押しし、18世紀にはフランスで最大の黒人奴隷貿易の港として栄えたのです。長い間隠されてきたこの黒い歴史によって、ナントは経済的な発展を遂げることとなります。

物々交換用の商材を乗せてナントの港から出発した船は、アフリカ大陸に着くと積み荷と捕虜を交換します。そして、アメリカ大陸に渡り、捕虜をプランテーションで働く奴隷として売り、砂糖やコーヒー、インディゴなどの植民地でしか取れない物資をヨーロッパにもたらしたました。18世紀当時ナントは実に42パーセントのフランスの売買を担っていたと言われています。こうして、ブルターニュでは行政の都レンヌ、経済の都ナントという2つの都が共存するという図式が20世紀まで続きました。