バルビゾン派を代表するコローが晩年通った街ドゥエ
フランス北部にあるドゥエ(Douai)は2016年に生まれたオー・ド・フランス地方の一部を形成しているノール県とパ・ド・カレ県の文化の象徴でもある巨人と鐘楼をもつ街です。
ドゥエは戦士の姿をしたゲヨン(Gayant)と呼ばれる巨人とその妻と子供3人の巨人家族にちなんで「巨人の街」としても親しまれていて、毎年7月に行われるフェット・ドゥ・ゲヨン(Fête de Gayant)の際には多くの観光客で賑わいます。この祭りはユネスコ世界遺産にも登録されていて、5人の巨人がドゥエの街を行進します。

そして、もう一つの街のシンボルが19世紀のフランスを代表する画家の一人でもあるカミーユ・コロー(Camille Corot)も描いた鐘楼です。「ドゥエの鐘楼」と名付けられたこの彼の作品には彼の鐘楼とドゥエへの愛着が感じられます。パリ生まれの彼はなぜドゥエで向かったのでしょうか?
バルビゾン派の画家カミーユ・コロー
モネに代表される印象派がフランスを席巻し始める半世紀ほど前、パリの南東約60キロのところにあるフランソワ1世が築いたフォンテーヌブロー宮殿でも知られるフォンテーヌブローの森(forêt de Fontainebleau)にあるバルビゾン(Barbizon)という村にある共通点を持った画家が集まり始めました。
古代のギリシャやローマの美的感覚を模倣し、歴史や神話がテーマを重視していたアカデミーが絶対的な絵画の権威であった当時にあって、後にバルビゾン派と呼ばれる画家たちは、ウィリアム・ターナー(Wiliam Turner)など同時代のイギリスの画家たちや17世紀のオランダの画家の風景画家たちを敬愛し、自分たちの感情や心理状態を学校で教えられるような技法に左右されず自由に描くことを望みました。そんな彼らの中心にいたのがカミーユ・コローでした。
1796年にパリに生まれた彼は若い頃ルーヴルに通い、アカデミーの流れを組む師の元で絵画を学びました。しかし、その後はノルマンディーやフォンテーヌブローを中心に野外で活動し、またフランス国内のみならずイタリアまで足を伸ばし、旅行をしながら絵を描く生活をしするようになります。30代の終わりにはアカデミーの主催していた展覧会ことサロンでも成功を収めるまでになりました。